ヨアキム・ボニエ
ヨアキム・ボニエ | |
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基本情報 | |
国籍 | スウェーデン |
出身地 | 同・ユールゴーデン |
生年月日 | 1930年1月31日 |
没年月日 | 1972年6月11日(42歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1956-1971 |
所属チーム |
'56-'58 マセラティ '57-'58 セントロ・スッド '58 スカルラッティ '58-'60 BRM '61-'62 ポルシェ '63-'65 ロブ・ウォーカー '63-'64,'66-'68 クーパー '64-'65,'66 ブラバム '57,'58,'66-'71 エキュリー・ボニエ '68,'70-'71 マクラーレン '68 ホンダ '69 ロータス |
出走回数 | 104 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 39 |
ポールポジション | 1 |
ファステストラップ | 0 |
初勝利 | 1959年オランダGP |
最終勝利 | 1959年オランダGP |
最終戦 | 1971年アメリカGP |
ヨアキム・ボニエ(Joakim "Jo" Bonnier, 1930年1月31日 - 1972年6月11日)はスウェーデン出身のレーシングドライバー。ジョー・ボニエ、ヨー・ボニエとも表記される。
経歴
[編集]1930年1月に学者の家で生まれる。
17歳からキャリアをスタートさせ、2輪レースやラリーに参戦。北欧仕込みの運転感覚で、氷上では無敵の強さを発揮したとされる。
F1
[編集]1956年最終戦イタリアGPにおいて、マセラティからF1デビュー。当時は珍しい北欧出身のF1レーサーとなったが、決勝はリタイヤ。翌1957年は4戦に参戦したが、うち3戦リタイヤとなり、完走は開幕戦のアルゼンチンGPのみとなった(7位)。
1958年も当初はプライベーターのマセラティから参戦するも、なかなか好成績を挙げられずにいた。しかし終盤にBRMのワークスチームに招かれると、移籍2戦目となる最終戦モロッコGPで4位に入り、初入賞を記録した。
1959年は第3戦オランダGPにおいて、予選でポールポジションを獲得。決勝でも、何度かラップリーダーの入れ替わる展開の中、ポールトゥーウィンを達成。自身およびBRMにとって初となる勝利を記録したが、その後は5位入賞1回という成績でシーズンを終えた。また結果的には、オランダGPがF1キャリア唯一の勝利・表彰台となった。
1960年もBRMから参戦するが、5位入賞2回という成績に終わる。1961年・1962年はポルシェからの参戦となるが、どちらも入賞は5位・6位が1回ずつという結果となった。
その後、1963年から1965年までは、プライベーターの名門として知られたロブ・ウォーカー・レーシングから参戦。1966年以降は自らマシンを購入し参戦したが、1969年以降は参加レースが極端に減少。1971年も5戦のみの出走に留まり、最終戦アメリカGPをもって、F1から去ることとなった。
スポーツカーレース
[編集]1954年・1955年にスウェーデンのツーリングカー選手権に参戦するなど、F1参戦開始以前より、スポーツカーレースで活動。主な戦績では、1962年セブリング12時間レースをフェラーリ250TRで、1964年ランス12時間レースを250LMで優勝。1966年のニュルブルクリンク1,000kmではフィル・ヒルと共にアメリカ製シャパラル・2Dで勝利した。
ル・マン24時間レースには、1957年から参戦。1964年にグラハム・ヒルとのコンビでフェラーリ330Pを駆り、2位となったのが最高位となる。
キャリア最後の優勝は、1972年のル・マン24時間レースである。
事故死
[編集]1972年のル・マン24時間レースには、ジェラール・ラルース、ジィズ・ヴァン・レネップと共にローラから参戦。計13度目の参加となった。
しかしレース中盤、ボニエのT280コスワースは下位クラスのフェラーリ・デイトナに接触し、ガードレールを飛び越えて木々を倒し、大破炎上。ボニエはマシンの中で即死していた。42歳。
逸話
[編集]BRM時代に同僚だったグラハムの息子、デイモンの命名者。
当時のモータースポーツでは珍しい、知性派のドライバーとして知られていた。
語学に長け人徳もあった為、F1においてはドライバーズ協会会長も務めていた。
ホンダとの関係
[編集]1964年ドイツGPにおいて、ホンダがロニー・バックナムを起用し、自社製マシンRA271で初参戦を図った。これに際し、当時GPDAの会長だったボニエは「難コースであるニュルブルクリンクにおいて、新参のチームが新参のドライバーで参戦することはあまりに無謀であり、危険」とその参戦に反対した(最終的にホンダは参戦している)。
4年後の1968年メキシコGPにおいて、プラクティス2日目に自身のマクラーレン・M5AのBRM V12エンジンを壊した際、急遽ホンダにスペアカーの借用を申し出、RA301の2号車で予選・決勝に臨み5位入賞。一旦活動を終えるホンダに、最後のレースでの入賞をプレゼントする結果となった。
レース戦績
[編集]F1
[編集]- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
- * 印は1967年ドイツグランプリにおいてボニエは6位でフィニッシュしたが、5位の選手がF2ドライバーであったため規定上ポイントを獲得することが出来ず、よって5位の2ポイントを獲得した。
ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回数 | 総合順位 | クラス順位 |
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1957年 | オフィチーネ アルフィエリ マセラティ | ジョルジオ・スカルラッティ | マセラティ・300S | S 3.0 |
73 | DNF | DNF |
1958年 | フランシスコ・ゴディア | フランシスコ・ゴディア・セールス | S 3.0 |
142 | DNF | DNF | |
1959年 | ポルシェ KG | ヴォルフガング・フォン・トリップス | ポルシェ・718 RSK | S 2.0 |
182 | DNF | DNF |
1960年 | グラハム・ヒル | ポルシェ・718/4 RS | S 2.0 |
191 | DNF | DNF | |
1961年 | ポルシェ システム エンジニアリング | ダン・ガーニー | ポルシェ・718/4 RS クーペ | S 2.0 |
262 | DNF | DNF |
1962年 | スクーデリア SSS リパブリカ ディ ヴェネツィア | ダン・ガーニー | フェラーリ・250TRI/61 | E 3.0 |
30 | DNF | DNF |
1963年 | ポルシェ システム エンジニアリング | トニー・マグス | ポルシェ・718/8 GTR クーペ | P 3.0 |
109 | DNF | DNF |
1964年 | マラネロ・コンセッショネアーズ | グラハム・ヒル | フェラーリ・330P | P 5.0 |
344 | 2位 | 2位 |
1965年 | マラネロ・コンセッショネアーズ Ltd. | デイビット・パイパー | フェラーリ・365 P2 | P 5.0 |
101 | DNF | DNF |
1966年 | シャパラル・カーズ Inc. | フィル・ヒル | シャパラル・2D | P +5.0 |
111 | DNF | DNF |
1969年 | スクーデリア・フィリピネッティ | マステン・グレゴリー | ローラ・T70 Mk.IIIB-シボレー | S 5.0 |
134 | DNF | DNF |
1970年 | レイネ・ウィセル | フェラーリ・512S | S 5.0 |
36 | DNF | DNF | |
1972年 | エキュリー・ボニエ・スウィッツランド | ジェラール・ラルース ジィズ・ヴァン・レネップ |
ローラ・T280-フォード コスワース | S 3.0 |
213 | DNF | DNF |
Source:[1]
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脚注
[編集]- ^ “All Results of Jo Bonnier”. RacingSportCars. January 12, 2019閲覧。