佐竹義堅 (久保田新田藩主)
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄5年1月5日(1692年2月21日)[1] |
死没 | 寛保2年2月4日(1742年3月10日) |
改名 | 福寿丸(幼名)、義堅 |
別名 | 主膳(通称) |
官位 | 従五位下豊前守、修理大夫、従四位下 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 出羽久保田新田藩主→出羽久保田藩世嗣 |
氏族 | 佐竹氏 |
父母 |
父:佐竹義都、母:石川氏 養父:佐竹義峯 |
妻 |
正室:有馬則維の養女・美代 野口氏 |
子 | 義真、女子 |
佐竹 義堅(さたけ よしかた)は、江戸時代中期の大名。通称は主膳。出羽国久保田新田藩の第2代藩主。出羽久保田藩世嗣。佐竹式部少輔家3代。官位は従四位下・修理大夫。
経歴
[編集]元禄5年(1692年)、久保田新田藩初代藩主・佐竹義都の長男として誕生。生母は石川氏。幼名は福寿丸。
元禄15年(1702年)10月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。享保5年(1720年)11月27日、父・義都の隠居により、家督を相続する。同年12月18日、従五位下豊前守に叙任される。享保6年(1721年)、駿府加番を命じられる。享保17年(1732年)5月9日、本家である出羽国久保田藩主・佐竹義峯の養子となり、1万石は久保田藩に還付する。同年5月11日、修理大夫と改称する。同年12月16日、従四位下に昇進する。寛保2年(1742年)2月4日、家督を相続することなく、養父・義峯に先立ち死去する。その後、久保田藩主には実子・義真が就いた。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『新編佐竹氏系図』(加賀谷書店、1973年)p.56