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佐竹義堅 (久保田新田藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐竹義堅
時代 江戸時代中期
生誕 元禄5年1月5日1692年2月21日[1]
死没 寛保2年2月4日1742年3月10日
改名 福寿丸(幼名)、義堅
別名 主膳(通称
官位 従五位下豊前守修理大夫従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
出羽久保田新田藩主→出羽久保田藩世嗣
氏族 佐竹氏
父母 父:佐竹義都、母:石川氏
養父:佐竹義峯
正室有馬則維の養女・美代
野口氏
義真、女子
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佐竹 義堅(さたけ よしかた)は、江戸時代中期の大名通称は主膳。出羽国久保田新田藩の第2代藩主。出羽久保田藩世嗣。佐竹式部少輔家3代。官位従四位下修理大夫

経歴

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元禄5年(1692年)、久保田新田藩初代藩主・佐竹義都の長男として誕生。生母は石川氏。幼名は福寿丸。

元禄15年(1702年)10月15日、5代将軍・徳川綱吉御目見する。享保5年(1720年)11月27日、父・義都の隠居により、家督を相続する。同年12月18日、従五位下豊前守に叙任される。享保6年(1721年)、駿府加番を命じられる。享保17年(1732年5月9日、本家である出羽国久保田藩主・佐竹義峯の養子となり、1万石は久保田藩に還付する。同年5月11日、修理大夫と改称する。同年12月16日、従四位下に昇進する。寛保2年(1742年)2月4日、家督を相続することなく、養父・義峯に先立ち死去する。その後、久保田藩主には実子・義真が就いた。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『新編佐竹氏系図』(加賀谷書店、1973年)p.56