佐竹義隆
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天徳寺所蔵 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長14年1月14日(1609年2月18日)[1] |
死没 | 寛文11年12月5日(1672年1月4日) |
改名 | 能化丸[2](幼名)、岩城吉隆、佐竹義隆 |
別名 | 平次郎→四郎次郎[2][1] |
墓所 | 秋田市の天徳寺 |
官位 | 従五位下、修理大夫[2]、従四位下、侍従[2]、左近衛少将[2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 信濃中村藩主→出羽亀田藩主→出羽久保田藩主 |
氏族 | 岩城氏(桓武平氏)→佐竹氏(清和源氏) |
父母 |
父:岩城貞隆、母:相馬義胤の娘[2]・慶雲院月庭清心[1] 養父:佐竹義宣 |
兄弟 | 佐竹義直室[2]、義隆、天教院[2] |
妻 |
正室:光聚院 側室:隆清院、永昌院 |
子 | 義寘、義処、義慰、義長、亀子 |
佐竹 義隆(さたけ よしたか)は、江戸時代前期の大名。出羽国久保田藩の第2代藩主。官位は従四位下・侍従、左近衛少将。佐竹氏第20代当主。
生涯
[編集]慶長4年(1609年)、佐竹義重の三男・岩城貞隆の長男として誕生。
元和6年(1620年)、貞隆の死去により家督を相続し、遺領である信濃国中村1万石を継いだ[3]。この時は岩城吉隆と名乗っている。元和8年(1622年)、出羽由利郡内で1万石の加増を受けた。元和9年(1623年)11月、中村の領地を収公、由利郡に替地を与えられた[4]。それに伴い由利郡亀田村に陣屋を移転した。寛永元年(1624年)12月29日、従五位下・修理大夫に叙任した。
寛永3年(1626年)4月2日、佐竹氏宗家の家督を継ぐ予定であった叔父・佐竹義直が廃嫡されたため、伯父で出羽久保田藩主・佐竹義宣の養子となり佐竹義隆と名乗る[5][6]。同年4月27日徳川秀忠・家光父子に御目見した。同年8月29日、従四位下・侍従に昇進する。寛永4年(1627年)9月16日、秀忠に招かれ鍋島勝茂・京極高広・藤堂高次らと共に、江戸城西ノ丸にて口切の茶会に参加した[7]。
寛永7年(1630年)11月、幕府からなかなか隠居を許可されない養父・義宣は、義隆に対して部屋住料5万石を与えようとするものの、従来のままで構わないとして辞退する。寛永10年(1633年)2月26日、義宣の死去により家督を相続する[8]。同年5月8日、藩主として初めて帰国の許可を得る[9]。寛文6年(1666年)12月28日、左近衛少将に昇進する。
寛文11年(1671年)12月5日、久保田城にて死去。享年63。
系譜
[編集]- 父:岩城貞隆(1583-1620)
- 母:慶雲院月庭清心、桂雲院月庭清心大姉[10] - 相馬義胤の娘
- 養父:佐竹義宣(1570-1633)
- 正室:光聚院(1620-1684) - 寿流姫、佐竹義章の娘
- 側室:隆清院(萬)(1607-1688) - 多羅尾氏
- 側室:永昌院(千)
偏諱を受けた人物
[編集]義隆時代
- 小野崎隆政(佐竹義久の子・小野崎宣政の嫡孫)
- 小場隆房(小場義成の子で小場義易の弟。佐竹義房の父。)
- 渋江隆光(佐竹義章の子)
- 多賀谷隆経(彦太郎、戸村義国の次男、岩城宣隆(初め多賀谷宣家)の養子)
- 多賀谷隆家(左兵衛、戸村義国の三男、隆経の養子)
- 多賀谷隆経(将監、隆家の子)
- 伊達隆宗(家臣)
- 真崎隆紀(家臣、真崎兵庫、多賀谷峯経の外祖父)
脚注
[編集]- ^ a b c 『岩城家譜』
- ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』
- ^ 『大日本史料』第12編之34 521頁
- ^ 『史料綜覧』第12編之916 57頁
- ^ 『史料綜覧』第12編之916 117頁
- ^ 岩城氏の家督は叔父・岩城宣隆が継いでいる。
- ^ 『史料綜覧』第12編之916 158頁
- ^ 『史料綜覧』第12編之917 4頁
- ^ 『史料綜覧』第12編之917 93頁
- ^ 『奥相茶話記』
出典
[編集]- 『羽後亀田 岩城家譜』
- 『寛政重修諸家譜』(五百十二 岩城)
- 『奥相茶話記』
- 『佐竹秋田家譜』