合州 (重慶市)
表示
合州(ごうしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の重慶市合川区一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
[編集]隋代
[編集]隋初には、合州は2郡2県を管轄した。開皇末年に合州は涪州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、涪州は涪陵郡と改称され、下部に3県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||||
州 | 合州 | 郡 | 涪陵郡 | ||||
郡 | 墊江郡 | 清居郡 | 県 | 石鏡県 漢初県 赤水県 | |||
県 | 石鏡県 | 漢初県 |
唐代
[編集]618年(武徳元年)、唐により涪陵郡は合州と改められた。742年(天宝元年)、合州は巴川郡と改称された。758年(乾元元年)、巴川郡は合州の称にもどされた。合州は山南西道に属し、石鏡・新明・漢初・赤水・巴川・銅梁の5県を管轄した[2]。
宋代
[編集]宋のとき、合州は潼川府路に属し、石照・漢初・赤水・巴川・銅梁の5県を管轄した[3]。
元代
[編集]1279年(至元16年)、南宋の合州安撫使の王立が元に降伏した[4]。元の合州は重慶路に属し、銅梁・定遠・石照の3県を管轄した[5]。
明代以降
[編集]明のとき、合州は重慶府に属し、銅梁・定遠の2県を管轄した[6]。
1913年、中華民国により合州は廃止され、合川県と改められた。