1888年の相撲
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1888年の相撲(1888ねんのすもう)は、1888年の相撲関係のできごとについて述べる。
できごと
[編集]この年の大阪相撲において、力士中よりの苦情に端を発して80名の力士が脱走し、「広角組」を発足、大阪相撲は真っ二つに割れた。この年の9月本場所は残留組(旧社)のみで興行し、広角組は四国巡業を行った[1]。
天覧相撲
[編集]1月14日、芝公園内弥生社に明治天皇が行幸、天覧相撲が挙行された[2]。
興行
[編集]- 1月場所(東京相撲)[3]
- 興行場所:本所回向院
- 1月5日より晴天10日間興行
- 5月場所(東京相撲)[4]
- 興行場所:本所回向院
- 5月13日より晴天10日間興行
- 9月場所(大阪相撲)[5]
- 興行場所:難波新地新金毘羅神宮
誕生
[編集]- 1月14日 - 13代木村玉之助(元・立行司、所属:中村部屋、+ 1966年【昭和41年】)
- 2月23日 - 鉄甲宗五郎(最高位:前頭15枚目格付出(大阪大関)、所属:熊ヶ谷部屋、+ 1943年【昭和18年】)[6]
- 2月27日 - 寒玉子爲治郎(最高位:前頭9枚目、所属:友綱部屋、+ 1948年【昭和23年】)[7]
- 3月14日 - 若湊義正(最高位:小結、所属:高砂部屋、+ 1941年【昭和16年】)[8]
- 4月2日 - 立汐祐治郎(最高位:前頭13枚目、所属:高砂部屋、+ 1972年【昭和47年】)[9]
- 4月10日 - 藤ノ川雷五郎(最高位:関脇、所属:伊勢ノ海部屋、+ 1966年【昭和41年】)[10]
- 4月27日 - 達ノ矢源之助(最高位:前頭2枚目、所属:千賀ノ浦部屋→芝田山部屋→出羽海部屋、+ 1945年【昭和20年】)[11]
- 9月19日 - 錦洋慶祐(最高位:前頭11枚目、所属:井筒部屋、+ 1929年【昭和4年】)[12]
- 10月5日 - 土州山役太郎(最高位:前頭筆頭、所属:友綱部屋、+ 1960年【昭和35年】)[13]
- 12月27日 - 矢筈山登(最高位:小結、所属:友綱部屋、+ 1963年【昭和38年】)[14]
死去
[編集]- 3月16日 - 相生芳藏(最高位:前頭8枚目(現役没)、所属:玉ノ井部屋、* 1862年【文久2年】)
- 7月22日 - 勝ノ浦与一右エ門(最高位:前頭筆頭、所属:勝ノ浦部屋、年寄:勝ノ浦、* 1843年【天保14年】)[15]
- 9月9日 - 3代緋縅力弥(最高位:前頭筆頭(現役没)、所属:玉垣部屋、年寄:玉垣、* 1856年【安政3年】)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 酒井, p. 95.
- ^ 酒井, p. 92.
- ^ 酒井, pp. 90–92.
- ^ 酒井, pp. 93–94.
- ^ 酒井, pp. 94–95.
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 26頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 27頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 31頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 28頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 43頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 35頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 45頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 21頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 44頁
- ^ 「怪童力士鬼若力之助の最期が判明」『相撲』2020年9月号、ベースボール・マガジン社、63-66頁。
参考文献
[編集]- 酒井忠正『日本相撲史 中巻』ベースボール・マガジン社、1964年6月1日。