端緒
たん‐しょ【端緒】
たん‐ちょ【端緒】
端緒
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佐世保には、1889年(明治22年)に大日本帝国海軍の佐世保鎮守府、1903年(明治36年)に海軍工廠が置かれて都市化したが、1945年(昭和20年)6月28日深夜からの佐世保大空襲で焦土と化した。 占領期に入ると佐世保にも進駐軍が展開し、旧日本軍施設に米海軍が進駐した。すると、米軍属相手にした飲食店・バー・キャバレーが佐世保市内に現れた。そして、佐世保が朝鮮特需による好景気に沸いた1950年(昭和25年)頃、米海軍関係者よりハンバーガーのレシピを教わり、佐世保におけるハンバーガーの歴史が始まったとされる。なお、初めて佐世保で手作りハンバーガーを作った店がどこなのかは不明。
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端緒
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19世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、工業力でイギリスに追いつく勢いを見せた。国内産業の発達したドイツは海外に新しい植民地を欲し、すでにイギリス、フランスによって色分けが成されていた植民地の再分割を主張するようになった。このためドイツとの対立が激化した。イギリスは対ドイツの安全保障策としてフランスと英仏協商を、ロシアと英露協商を結んで三国協商とし、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗しようと試みた。1914年、サラエヴォ事件によってオーストリア・ハンガリー帝国次期皇位継承者フランツ・フェルディナントが暗殺されたことを契機にして、ヨーロッパの大国同士が争う第一次世界大戦に突入した。 当時の首相のハーバート・ヘンリー・アスキスは、1914年8月4日にドイツが中立国ベルギーを侵略したことに対して対独宣戦することを決意した。連合国の一員としてイギリスはフランスに大陸遠征軍を派遣、フランス、ベルギー軍と共に西部戦線でドイツ軍と対峙した。当初イギリスでもこの戦争は比較的短期間で終了すると予測されていたが、緒戦のマルヌ会戦でドイツ主導の短期決戦計画が破綻すると両軍とも北海からアルプスまで至る塹壕を掘ってにらみ合い、西部戦線は膠着状態に陥った。 また、サクス=コバーグ=ゴータ朝であった王室は、敵国となったドイツ語由来の名称を嫌悪し、ウィンザー朝と改称し在位中のジョージ5世が初代君主となった。
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「ハイブリッド・ログ=ガンマ」の記事における「端緒」の解説
2015年5月15日、BBCは、国際電気通信連合(ITU)に提案する共同のHDR提案を開発するためにNHKとの共同作業を開始したと発表した。2015年6月9日、HLGが高効率ビデオ符号化(HEVC)のJCT-VCに提案され、スクリーン・コンテンツ符号化拡張の2015年6月のドラフトに追加された。 同年後半、ソニーはSMPTEの2015年カンファレンスで改造したHDRディスプレイに表示したHLG映像を展示した。Colorfront社は、同社のTranskoder 2016ソフトウェアがHLGを使用したHDR出力をサポートすることを発表した。LGグループは、同社の2015年型4K OLEDテレビがHLGおよび知覚量子化器(PQ)でのHDRをサポートすることを発表した。 ブラックマジックデザインはHLGサポートを追加するDaVinci Resolveのアップデートをリリースした。 スカパー!は、HLGを使用して4K UHDTVのHDR番組を日本の衛星加入者に配信すると発表した。Harmonic Inc.とNASAは、HLGを使用して翌日のNASA TVで放送されたアトラス V打ち上げのHDR撮影を発表した。バチカン・テレビジョン・センターは聖なる扉の儀式を、HLGとRec. 2020色空間を使用して放送した。
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たけしが、当時懇意になりつつあった東京スポーツの紙上(1987年9月8日付け)で、「プロレス団体設立」をぶち上げたのが発端となった。設立についてたけしは「オイラがプロレスファンという事もあるけど、最近のプロレスに感じられなくなった。力道山時代の熱気を、ぜひ取り戻したいと思った」と語り、手駒の選手を育てたうえで、「手始めにアントニオ猪木に挑戦したい。何といっても日本でナンバー1のプロレスラーだから」と、その目標を明らかにした。 東京スポーツは以後「ビートたけしプロレス大挑戦」と題した密着ルポを始めるなどして、TPGの煽り役を担った。しかし、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に於いて、総合演出のテリー伊藤が中心となって発案した、全日本プロレスの協力のもとコーナーを設けていたが立ち消えとなった「プロレス予備校」の焼き直しではないかとの疑問が呈されていた。 TPGは『たけしのオールナイトニッポン』で練習生を募集し、アポロ菅原をコーチとして招聘し、都内に秘密道場を用意してトレーニングを積ませた。練習生のなかには、脇田洋人(スペル・デルフィン)、秋吉昭二(邪道)、高山圭司(外道)がいた。 マサ斎藤がたけしに接近し、斎藤はTPGの参謀役を任されたほか、広報的役割をたけし軍団のガダルカナル・タカとダンカンが務め、1987年10月9日に新日本プロレスの事務所に出向いて山本小鉄に挑戦状を手渡し、山本に「プロレスをなめるな!」と一喝された。12月4日にはリングに上がり猪木に直接挑戦状を渡すなどした。 TPGの新日本プロレス参戦は、同年12月27日の両国国技館大会に決定し、猪木への刺客がビッグバン・ベイダーであることが発表された。 ミスター高橋が後に明かしたところによれば、TPGの結成と後述のアングルには、東京スポーツの櫻井康雄の仲介で、たけしと親交を持った猪木が大きく関係していたとしている。高橋によれば、猪木はマッチメイカーであった高橋に命じて、TPGに関するアングルを作成させたとしている。
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「能登半島沖不審船事件」の記事における「端緒」の解説
最初に特異な兆候が発生したのは1999年3月18日のことであった。北朝鮮の諜報員が使用する無線局「A-3」に変化が発生。この兆候は、電波による情報活動(シギント)を任務とする自衛隊の情報本部電波部、警察庁警備局の外事技術調査官室(通称「ヤマ」)、また、日本や韓国に駐留するアメリカ軍の情報機関などによって傍受されたものとみられている。 端緒は他にもあった。翌日の3月19日には北朝鮮・清津にある工作船基地から工作船が出航した旨の衛星情報が在日米軍司令部経由で情報本部に寄せられた。また、北朝鮮が「日本にある重要なブツを持ち込む」との情報が韓国の情報機関国家情報院(NIS)から公安調査庁(PSIA)に寄せられたともいわれる。しかし、この時点では差し迫った脅威があるという情報がなかったことから特に対策はとられなかった。 事態が急展開したのは3月21日であった。この日の22時ごろ、日本海の能登半島東方沖の海上から不審な電波発信が続けられているのを各関係機関が一斉に傍受した。さらに、深夜には「A-3」にも異常がみられたという。これらの情報を踏まえ、3月22日15時に海上自衛隊舞鶴基地から護衛艦「はるな」(第3護衛隊群・直轄艦)、「みょうこう」(第3護衛隊群所属)、「あぶくま」(舞鶴地方隊所属)が緊急出港した。法的根拠は防衛庁設置法に基づく「調査・研究」とした。同時に警察庁から日本海側各県の警察に対して沿岸の警戒強化を呼びかける「KB(KOREAN-BOAT)参考情報」が発せられた。
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クルップの歴史は、鋼鉄とともに始まった。昔から、強靭な鉄である鋼鉄は、鍛冶屋が金床に鉄材を載せて鎚で叩いて鍛造するしかなかったため、サイズや形が限られていた。鋳型に熔鉄を流して作る鋳鉄は、大きなものを作れ造型の自由度は高かったが、もろく壊れやすかった。このため、鋳型で鋼鉄を作る鋳鋼の技術が研究され、18世紀の末にイギリスのシェフィールドで鋳鋼の技術が確立されて、世界の需要を独占した。 プロイセンの炭坑町だったエッセンに住む発明家のフリードリヒ・クルップ(ドイツ語版、英語版)(1787年-1826年)は、イギリスが独占する鋳鋼の製造技術を解明することを志した。彼はライン川の河畔に小さな木造の水車小屋を建て、水力を動力とする研究室を構えた。この水車小屋が、のちの巨大企業・クルップの源流である。 彼はその工房にこもり、鋳鋼の製造法の解明を試みた。だが技術的な難関を乗り越えることができず、借金を重ね、晩年には気力をなくして寝たきりになった。彼が39歳で貧困のうちに窮死したその日、作業小屋とわずかな従業員は、14歳だった長男のアルフレート・クルップ(Alfred Krupp、1812年-1887年)に引き継がれた。 アルフレートは数年のあいだ工房にこもって研究を重ねたのち、ついに鋳鋼の製造に成功する。彼は細々と工具や食卓ナイフ、スプーンの製造を始めた。鋳型に模様をつけることで、柄に花などの模様のあるスプーンを最初に作り出したのはクルップだった。のちには貨幣の鋳造機や蒸気機関車の車輪の製造を開始し、苦労しながらもクルップの事業は軌道に乗りはじめた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 05:03 UTC 版)
この言葉はベルナール=アンリ・レヴィが1976年に作った。この範疇に彼含めた哲学者の大部分はマオイストとしての前史を持っているが、のちにマルクス主義を否定するに至った。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの「収容所群島」は多くのこういった元左派の哲学者に強い影響を与えた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 08:05 UTC 版)
Red Hat LinuxやSlackwareのZipSlackを含む多くのLinuxディストリビューションは、SYSLINUX とUMSDOSファイルシステムドライバを使って、1990年代半ばに類似ツールを提供していた。その後、SUSE社がFATファイルシステム上でsyslinuxとループマウントされたディスクイメージを使って同様のものを提供していた。90年代後半に、BeOSが同様のシステムを使ってWindows内のフォルダにOSをインストールしていた。 Wubiのアイディアは、ループマウントされたインストールを提供したTopologilinuxおよび単純なWindowsフロントエンドを提供するInstluxから着想を得て、アゴスティーノ・ルッソによって起草された。そのアイディアとはUbuntuのイメージをループマウントするWindowsインストーラを持つ2つの概念を統合することにあった 。 その後ゲーザ・コバーツが仕様を改良し 、その概念がうまくいくことを示す最初の試作品を提供した。オリバー・マトスはNSISでオリジナルのユーザーインターフェイスを書いた。 その後アゴスティーノ・ルッソがループインストールの概念を改良し、単にループマウントされた事前作成のイメージファイルから、動的にパッチを適用したバージョンのDebianインストーラを使ってその場で作成されたイメージへと移行し、そのため初期のプロトタイプの他いくつかの問題に対処しながら、実際のインストールに近い実働(エクスペリエンス)を提供した。ルパンプロジェクトはこのように生まれ、アゴスティーノ・ルッソはゲーザ・コバーツからの貢献を幾つか持つコードの大部分を書いて実装した。 後にアゴスティーノ・ルッソとEcology2007は、現在のWindowsフロントエンドを再設計し、書き換えた。ハンプス・ウェスマンは新しいダウンローダと翻訳スクリプトを寄稿した。Bean123とTinybitはブートローダの問題をデバッグおよび修正して支援した。LubiとLVPMはその後ゲーザ・コバーツによって作成された。 このプロジェクトは、Win32ローダーなど他のWindowsベースのLinuxインストーラの作成に影響を与えた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 22:40 UTC 版)
豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍の指揮を執り三成ら西軍を撃破する。家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(いわゆる太閤直轄地)を東軍への恩賞という形で全国にあった220万石の内ほぼ4分の3を削減してしまった。これにより、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石程度まで削がれた。なお、豊臣領三国のほか、徳川国奉行設置国の伊勢国と備中国に豊臣直臣団の知行地が所在した。 慶長8年(1603年)2月12日、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸城を始め普請事業を行うなど、政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり、別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。 同年7月、家康の三男・徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。 慶長10年(1605年)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍の指揮を執り上洛した。 同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼はこうして右大臣になったが、秀忠の将軍職継承が豊臣家にではなく徳川家であることを天下に示したものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった。 5月8日、秀頼が臣下の礼を取るように、高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は六男の松平忠輝を大坂に遣わし、融和に努めている。 慶長16年(1611年)3月、後水尾天皇の即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見)。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。 慶長17年(1612年)、前年上洛していなかった東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない。 二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり、兵糧や浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。 豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。 こうしたなかで生じた方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。 且元は大坂へ戻り、9月18日、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。 秀頼を江戸に参勤させる 淀殿を人質として江戸に置く 秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する この案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。秀頼や木村重成からの調停があったものの、28日に高野山に入るとして大坂城を出ることを決めたが、これは秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として改易が決められる。10月1日に且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を退去した。 且元は慶長18年(1613年)に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあり、豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになった。秀頼による且元殺害の企ての報を10月1日に受けた家康は、これを根拠に同日諸大名に出兵を命じて大坂の陣が勃発した。
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「端緒」の例文・使い方・用例・文例
- 着手する; 〔…の〕端緒を開く 〔for〕.
- まだ問題解決の端緒が見出されない.
- これが犯人逮捕の端緒となった.
- これが対露親善の端緒を開いた
- 端緒を開く
- この弊風の廃止が改革の端緒を開いた
- この弊風の廃止が改革の端緒となった
- 探偵の端緒を得る
- まだ探偵の端緒を得ず
- 警察では犯人探偵の端緒を得た
- この手拭が探偵の端緒となった(この手拭から足が付いた)
- 支那はただ端緒を開いたのみでこれを完成したのはヨーロッパである
- 未だ探偵の端緒を得ず
- 警察では探偵の端緒(手がかり)を得た
- この手拭が探偵の端緒となった(この手がかりから足が付いた)
- その曲は彼の最初のヒットで、彼の成功の端緒を開いた
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